2007/06/03

「監視社会」は「監視国家」と異なり、集中的な権力が個人の身体を監視するようなものではなく、遍在するデータベースがその主体となっており、また、私たち自身がその監視を望み、支えているものである。さらに、監視社会における監視は、ヒトによるヒトの監視ではなく、マシンによるデータの監視という事態である。




すなわち、統一的な個人の情報を把握することではなく、ある場面において必要な情報のみが監視されているということだ。個人情報がデータベースに管理されることで、よく言われるようなプライバシーの問題は生じうるが、それはあくまで監視そのものへの批判を呼び出さず、監視の運用を巡る是々非々論にしか帰結しない。    (鈴木氏『カーニヴァル化する社会』より) アンソニー・ギデンズのような社会学者は、後期近代を生きるためには、ここで言う消費社会的シニシズム、つまり自分の選択は自分があえて選んだものであることを自覚し続けなければならないと主張している。しかしながら私は、現代社会において、そうした「あえて」の契機を欠いたまま、内発的な動機付けを高めていくシステムが、様々に編み上げられつつあるのではないかと考えている。    (鈴木氏『ウェブ社会の思想 をどう生きるか』より)
Posted by Picasa

0 件のコメント: