2007/10/10

麻生ちゃんって爺さんの下にゲバラでっか?クーバにでも行ったのか?しかも書き込みしてるらしい。




どのような組織にもろくに働きのない人間、いるだけで赤字が増える人間が20%くらいいる。だいたい給料分働いている人間が60%。利益を出しているのは残る20%だけである。でも、それで十分なのだ。100%が必死に働く必要なんかない。社会システムというのは5人に1人くらい「働き者」がいれば十分回るように設計されているのである。それ以上の「働き者」を必要とするシステムは設計の仕方が間違っているのである。日本社会は相対的な成熟期・安定期に入ったと私は見ている。福田康夫と麻生太郎の間に政策的な違いはほとんどなかった。政治技法として「正面突破」か「裏技・寝技」かの違いがあっただけである。それどころか、自民党と民主党の間にも政策的な違いはほとんどない。だって、自民党総裁は四代続いての清和会で、民主党はおおかたが元・経世会なんだから。二大政党の政策差が、かつての自民党の二派閥間の政策差にまで縮小したのである。それだけ政策の選択肢の幅が狭くなったということである。政策の選択肢の幅が狭いというのは、悪いことではない。それは社会が成熟して、大きな変化を受け付けなくなったということであり、言い換えれば「誰がリーダーになってもあまり変わらない」ようになったということである。私はむしろ「安倍晋三程度の人間でも首相が務まった」という点に日本の政治構造の成熟の深みを見るのである。これからの日本は誰が首相になっても大過なく職務を全うすることができるようなシステムになってゆくであろう。政策的選択肢がほとんどなく、同一政策をどれくらいの進度で実現するかの時間差があるだけなんだから。安倍内閣では時計を早めようとした。福田内閣ではそれをスローダウンすることになるだろう。でも、2007年秋は世界をあげて「とりあえずスローダウン」の時期である。ここでアクセルを踏む政治家はいない。イラク、アフガニスタンは出口のない泥沼で、ブッシュはもうレームダックである。だからイラク特措法だって、別に今急いでどうこうしなくてもいいのである。「野党のご理解を賜るべく鋭意折衝しておるのですが、なかなか同意が得られず・・・」とだらだら時間稼ぎをしているうちに、アメリカが大統領選挙に入ってしまったら、もうインド洋の給油のことなんかうるさく気にするアメリカ人はいないであろう(希望的観測)。プーチンも盧武鉉ももうすぐ任期切れである。対ロシア、対韓国でも、この時期におおきな政策変更はする余地がない。少し動かせるのは対中国外交だけだが、これは福田の得意分野であるから、年内にある程度の実績はあげられるだろう。対北朝鮮外交はどうせアメリカが大統領選に入ったらもうストップしてしまう。右を見ても左を見ても、「とりあえず変化の落ち着く先を様子見」という結論しか出ない。落ち着きどころを見極めてから、「ではそういうことで」と立ち上がればよい。つまり、いまこの時期というのは「何もしないで、ぼおっと様子見する」ことが日本の為政者にとってベストの政治的選択なのである。福田康夫は「背水の陣」といったけれど、別に「後がないので、正面突破するしかない」という攻撃的な布陣をする気はない。これは単に「後がないので、後に下がるというオプションはありません」という「選択肢が限定されているせいで身動きならない日本」の状態を比喩的に形容したものと思われる。それでいいんじゃないの、と私は思う。国家というのは選択肢がありすぎて、妙に口のうまいデマゴーグが出て来てとんでもない方向にひっぱられている可能性があるよりも、選択肢が少ないので、誰が首相でも同じようなことしかできないという方が国民にとってはずっとましである。そういうだらけた国は、大きな利益は望みがたいが致命的なリスクは避けることができる。今の日本に「大きな利益」は必要ではない。国土を拡大する必要もないし、欧米の土地や企業を買い漁るほどの金が要るわけでもない。とりあえず今の国境線を維持できて、法秩序が守られ、環境がこれ以上破壊されず、それなりに静かに暮らして行ければ、おおかたの日本人は満足であろう。私は福田政権を21世紀日本の「スローダウン」の記号であろうと思っている。「改革を止めてはならない」というと、なんだか改革を煽っているように聞こえるが、「止めてはならない」というのは要するに「現状維持」ということである。「改革を止めろ」というほうが実はよっぽどラディカルでアクティヴなスローガンなのである。「希望の持てる国に」というのも、なんだか前向きの政策に聞こえるが、「希望が持てる」のは希望のすべてが実現していない場合だけである。人々が希望を持てる国というのは、「ちょっとずつは善くなるが、大きく善くなることがない国」ということである。『九条どうでしょう』で書いたように、日本は55年体制において、日米間の外交的矛盾をすべて「保守対革新」のドメスティックな矛盾に流し込んで「処理」してきた。アメリカの軍事的属国であるという事実に日本の政治的自由を拘束する最大の要因はある。それを歴代内閣は「国内的な対立勢力の抵抗のせいで、対米協力について政府がフリーハンドをふるえない」という話型に回収してきた。そうやって、対米的にはリスクとコストの高い軍事協力を逃れ、国内的には「属国である事実」を隠蔽してきたのである。私はそれを「世界政治史上もっとも狡猾な政治的装置の一つ」と評価している。福田康夫の登場はおそらくメディアがこぞって書くとおり「古い自民党への回帰」に他ならないのであろう。だが、それが「自民民主の猿芝居」によってアメリカとの関係をぐじゃぐじゃにする「新たな55年体制」の復活をめざすのならば、私はこれを日本国の平和と繁栄のために多としたい。

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