2008/03/08

 「グレート・ホワイト・フリート」は、当時の大統領、セオドア・ルーズベルトが米海軍大西洋艦隊の戦艦 16隻を中心とする部隊を世界一周の航海に派遣したものです。その艦隊は船体を真っ白に塗っていたため、「グレート・ホワイト・フリート(白い大艦隊)」と呼ばれるのです。=テディベア

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日本では誰も注目していなかったようですが、2007年は米国の「グレート・ホワイト・フリートの世界周航」から100周年にあたりました。
 「グレート・ホワイト・フリート」は、当時の大統領、セオドア・ルーズベルトが米海軍大西洋艦隊の戦艦16隻を中心とする部隊を世界一周の航海に派遣したものです。その艦隊は船体を真っ白に塗っていたため、「グレート・ホワイト・フリート(白い大艦隊)」と呼ばれるのです。
<「1年かけて地球を一周」の偉業が意味するもの>
その白色の艦隊が米東海岸ヴァージニア州のハンプトンローズを出発したのは1907年12月16日、そこからカリブ海~南米を経て、太平洋に入り、西海岸のサンフランシスコに翌1908年5月に入港しました。
 そこで一部編成を変えて艦隊は7月に出港、さらに太平洋を横断し、ハワイ、ニュージーランド、オーストラリア、フィリピンに寄港し、1908年10月18日から25日にかけては横浜に入っています(日付は日本時間では19日から26日になるかもしれません)。
 次いで艦隊は中国のアモイを経てフィリピンに戻り、セイロン(現スリランカ)に寄って、スエズ運河を通って最後にジブラルタルに寄港。1909年2月22日に出発地ハンプトンローズに帰港しました。1年2ヶ月、総行程1万2000海里以上に及ぶ大航海でした。
 当時は世界の海洋はイギリスの支配下にありました。“日の沈むことなき大英帝国”が健在で、ヨーロッパ各国が世界に覇を競っていました。
 今のような長距離航空戦力のない時代のことですから、外国にまで届く軍事力というと海軍力しかなく、その中心が戦艦でした。米国は自分の戦艦勢力のほぼまるごと全部を世界一周の航海に就かせたのです。
 このころの戦艦の動力は、石炭を燃やす蒸気機関です。南北米国を巡って、太平洋と大西洋の二つの大洋を横断するといった長距離航海は、航海術や艦の整備・保守だけでなく、その補給態勢の確保も含めて、大変な挑戦でした。
<「域外関与」の意思と能力を誇示する契機に>
 この「グレート・ホワイト・フリートの世界周航」は、軍艦の信頼性とともに、米海軍の作戦能力の高さを世界に誇示することとなったのです。つまり米国が太平洋や大西洋の向こう側にまで海軍力を派遣できることの証明であり、米国がヨーロッパの“列強”と肩を並べるだけの力があることを見せつけたのでした。
この少し前、1905年にセオドア・ルーズベルト大統領は日本とロシアの間での日露戦争の講和を斡旋。その功績によって1906年にはノーベル平和賞を受賞しています。二つの大洋に挟まれた巨大な未開の島国だった米国は、自分の域外の出来事に積極的に関与するようになっていたのです。
 「グレート・ホワイト・フリートの世界周航」は、米国が海軍を使って、世界へのコミットメントの能力と意思、それと実績を誇示したものだったといえます。
 もちろん、これだけで米国が孤立主義から脱却したわけではありません。第一次大戦への参戦に際しては、ヨーロッパの国同士のもめ事に巻き込まれず、ヨーロッパからの干渉を受けずというのが独立以来の米国の国是じゃなかったのか、と反対の声がたくさんあったそうです。
 その後の第二次大戦でも、フランクリン・ルーズベルト大統領は、1941年の日本の真珠湾攻撃以前に、中立国の立場にありながらイギリスを支援するためにいろいろと苦慮しました。そんな揺れ動きはあったものの、米国はこの「グレート・ホワイト・フリートの世界周航」をきっかけにして、世界への積極的な関与を深めていったのです。(後略)



試験問題の解説(2007年7月)-1 内藤陽介

1898 年にフィリピンを領有したアメリカは、1904年の日露戦争に関して、日本がロシアに対してそこそこの勝利を収めるのが、最も好ましいシナリオであると考 えていました。同時に、アメリカは、日露戦争後の国際秩序の変化をにらんで、具体的な敵国を想定した国防計画に着手。ドイツを仮想敵国としたプランをブ ラック戦略案と名づけたのをはじめ、イギリスはレッド、日本はオレンジ、南米はパープル、カナダはクリムゾン(臙脂)、メキシコはグリーン、といったよう に、それぞれ、色の名前のついた戦略案を策定します。

 ところが、1905年5月27~28日の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊が全 滅したことで、アメリカの太平洋戦略の前提となっていた軍事バランスが崩れ、日本の海軍力が突出したものとなると、慌てたアメリカは、6月9日、大統領セ オドア・ローズヴェルトが日露両国に対して講和を勧告。さらに、7月、陸軍長官のウィリアム・タフト(後にローズヴェルトの後をついで大統領になる)が東 京で首相・桂太郎と極秘に会談し、アメリカのフィリピン統治と日本の韓国支配を相互に承認する協定(桂=タフト協定)を締結し、日露戦争後に備えようとし ました。以後、アメリカは日本に対して警戒観を強めていきます。

 一方、東洋人が白人を破った戦争は、アジアの人々に勇気を与えた 反面、欧米では黄禍論を巻き起こします。特に、日系移民が急増していたカリフォルニアでは排日運動が激化し、1907年には、移民法が改正され、日系移民 に対する実質的な制限が加えられました。また、アメリカ国内の大衆紙は国民の排日感情をあおる記事を掲載して部数を伸ばし、日本がアメリカ西海岸を攻撃す る内容のシミュレーション小説が多くの読者を獲得します。

 国民の反日感情が高まる中、西海岸の人心を安定させるとともに、海軍拡張政策への国民への支持を取り付けようと考えたローズヴェルトは、1907年12月、大西洋艦隊をサンフランシスコへ向けて出航させました。これに関して、無 責任な大衆紙は「アメリカ海軍は日本と戦うために太平洋へ出発!」と報じましたが、当初、政府は沈黙を守ります。しかし、艦隊が南米最南端のマゼラン海峡 を廻って太平洋を北上し、1908年3月、メキシコのマグダレナ湾に到着すると、ローズヴェルトは、突如、大西洋艦隊の目的地はサンフランシスコではなく “世界一周”であると発表。艦隊が日本を威嚇するために太平洋を渡ろうとしていることは、もはや、誰の目にも明白となりました。

 ローズヴェルトの発表に全世界は驚愕。フランスでは日米開戦必至と見て日本国債が暴落。米西戦争の記憶が生々しいスペインでは、日本への資金援助を申し出る貴族や資本家が続出したといわれています。

 これに対して、日本政府は、アメリカの攻撃を恐れながらも、欧米世論の挑発には乗らず、むしろ、大西洋艦隊を“歓迎”することで危機を脱しようと考えました。

  このため、国内では朝野を挙げて、“白船(大艦隊は船体の色からグレイト・ホワイト・フリートと呼ばれており、これが日本語では白船と訳された)”歓迎の ありとあらゆるキャンペーンが展開され、メディアでは、「文明開化もつまるところはペリーの黒船のおかげだった」との論説が日米友好の名の下にさかんに繰 り返されました。その一環として、逓信省はここに挙げたような歓迎の記念絵葉書を発行し、白船の乗務員たち全員に無料で配布しています。

 結局、1908年10月18日に横浜に入港した白船は、同月25日、歓迎責めに当惑する乗員を乗せて無事、横浜を出航。欧米で予想されていた日米戦争は回避されました。

 もっとも、白船が横浜を出港してから2週間後、日本海軍の連合艦隊は、米軍が奄美大島を占領したことを想定した大規模な演習を実施。こうして、大日本帝国は、“仮想敵国・アメリカ”に対する準備を開始することになるのです。

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