2007/07/05

核の傘の下で核廃絶なんて眠たい事云うとったらNo More Hiroshima One More Nagasakiでケツの穴にエスタブリッシュマラ突っ込まれマッセww




国際社会での「歴史紛争」-虐殺(2)  萬晩報indexより同じく部分引用
●「ヒロシマ」をふりきった「アウシュビッツ」

今述べた思考パターン、少々おおげさにいえばパラダイムの転換について、別の視点に立って考えてみることができる。

地球上はじめて原爆が投下された「ヒロシマ」と、ナチのユダヤ人虐殺を象徴的に表わす「アウシュビッツ」の両方を、欧米の知識人は戦後長い間現代文明の極 限として考えていた。つまり彼らの頭のなかで、この二つの事件は一列に並んでいた。ところが、マラソンレースでいえば、ある時から「ヒロシマ」が脱落し、 「アウシュビッツ」が独走態勢に入る。それはいつ頃だったのであろうか。このあたりの事情がこの問題を考えるヒントになると思う。

というのは、「ヒロシマ」の脱落も、国際社会での「歴史紛争」のはじまりと無関係でない。厳しい冷戦で抑えられていた「加害者=枢軸国」という第二次世界大戦についての刑法的歴史観が復活したために、このような議論が始ったと見なすことができるからである。

「ヒロシマ」のほうは「アウシュビッツ」と異なり「被害者対加害者」の刑法的図式におさまらない。「加害者」に対して「警察官」の米国がやってしまったこ とだからである。「アウシュビッツ」、すなわち「ホロコースト」と呼ばれるナチのユダヤ人虐殺を強調することは、「被害者対加害者」という図式のみに基づ く歴史観を普及させることになる。

ドイツの週刊新聞「ツァイト」で、ある知識人が原爆投下の「ヒロシマ」と、「アウシュビッツ」、すなわちユダヤ人虐殺の「ホロコースト」を昔同列に置いて 論じた哲学者・文化人を片っ端から弾劾する評論を書いたことがある。同列に論じることで、彼らが「被害者対加害者」の区別をおろそかにしたというのがその 弾劾理由であった。

私は昔から「ノーモア・ヒロシマ」の核廃絶運動について行けなかったが、でも広島と長崎の原爆投下がこのように扱われることに読みながら複雑な気持になっ た。これは冷戦終了後数年たった頃である。でも、この論調につながる「被害者対加害者」の図式で切ってしまう第二次世界大戦観は、後で述べるようにドイツ では八〇年代に定着している。でもヨーロッパで、これほどまでも「ヒロシマ」が「ご用済み」にならなかったのは1987年の米ソ中距離核戦力(INF)全 廃条約調印までは核戦争の恐怖があったからである。

冒頭に触れたIBM訴訟との関連で米人歴史学者ポール・ヒルベルクが新聞インタビューで、米社会で済んだ話の第二次世界大戦を「よい戦争だった」とする意識は七〇年代の後半から目立つようになったと述べている。

この変化は、多くの人々が指摘するように、ベトナム戦争敗北後の米国社会の精神状態と無関係でない。状況が悪くなると誰もが良かった昔を思い出したいもの だし、米国人の眼から見て「良い戦争」、「正しい戦争」で輝かしい勝利をおさめたとなると「第二次世界大戦」を持ち出してくるしかないからである。Posted by Picasa

0 件のコメント: