2007/11/15

宮台のオナニー右翼も平和左翼も米帝ケツ舐めチョパーリなら、岸田秀も東京裁判史観を容認したことが、アメリカがベトナム戦争やイラク戦争を決断する根拠となったとWラジカルでんなW






日本が東京裁判史観を容認したことが、イラク戦争を決断する根拠となった 書評 / 2007年11月14日

私は、戦後日本が東京裁判史観を容認したことが、アメリカがベトナム戦争やイラク戦争を決断する根拠となったと考えている。(岸田 秀)2007年11月14日 水曜日◆嘘だらけのヨーロッパ製世界史 岸田秀 著◆東京裁判史観への疑いこれまであちこちですでに書いたことであるが、敗戦直後の学生時代、わたしは、小学生のときにたたき込まれた、大東亜戦争はわが大日本帝国が鬼畜米英からアジアを解放するために戦っている聖戦であるといういわゆる皇国史観も、アメリカが宣伝した、太平洋戦争は自由と民主主義の旗手アメリカがアジアを侵略する悪の独裁国家日本を打倒するために戦った正義の戦争であるといういわゆる東京裁判史観も、ソ連が唱えていた、日米戦争はともに帝国主義国家である日米が覇権を争い、アジアの植民地を奪い合った帝国主義戦争であるといういわゆる左翼史観も、いずれも信じる気になれず、戸惑っていたような記憶がある。当時、そこまで気づいていたわけではないが、皇国史観も東京裁判史観も左翼史観も、前提と緒論はそれぞれ違っているものの、前提から緒論へと導く論理の運び方と根底となっている思想は同じなのであった。この三つの歴史観は、手前味噌史観あるいは自己中心主義史観とでも呼ぶべき同じ一つの歴史観の三つの変種に過ぎなかった。それなのに、どの歴史観を信じているにせよ、そのうちの一つだけが正しく、他の二つは間違いだというのは、目クソ鼻クソのようで何とも納得できないのであった。三つともいかがわしいという気がしていた。別に確乎とした根拠を掴んで深く確信していたわけではないが、どの歴史観もすべて、自国である日本、アメリカまたはソ連だけが正義で、敵対する他国は悪の国であり、目的は手段を正当化するとかで、正義を実現するためならどのような残酷なことをしても止むを得ないというような身勝手な考え方をしていて、それぞれ、蒋介石の国民党のような米英の倣偲である反日勢力をアジアから駆逐して大東亜共栄圏を樹立すれば、共存共栄の恒久の東洋平和が確立されるとか、独裁国家が滅亡し、すべての国がアメリカのような自由民主主義国家になれば、世界は平和になるとか、戦争は植民地を奪い合う帝国主義国家が起こすのだから、すべての帝国主義国家が消滅し、全世界が共産化すれば、戦争はなくなるとか、判で押したかのように、「平和」を理想に掲げ、要するに、正義の味方であるわれわれに敵対する悪い奴がいなくなれば戦争はなくなり平和になる一当り前だ)という勝手なことを言っているだけで、自已中心的なヌケヌケとした図々しさが目につき、いずれもうさん臭いような気がしていたようである。どうしてそのようなことを信じる人がいるのか腋に落ちなかった。どうも、わたしはひがみっぽくてすねているというか、人一倍疑い深い性質らしい。かといって、自分なりの歴史観をもっていたわけでもなかった。わたしにとっては、なぜ日本はアメリカに負ける戦争を仕掛けたのかというのが当時からいちばん大きな問題であったように思うが、それも問題の一つに過ぎず、世の中はわからないこと、不思議なことばかりで、世界にはどうしてこういうことが起こるのか、世界はどうしてこういうことになっているのかと、どうしようもなく不可解であった。世界が不可解であるからといって藤村操のように華厳の滝に飛び込んだりはしなかったが(持ち出す語がいささか古過ぎるが)、世界が不可解であるというのは何となく居心地が悪い。また、わたしはどうもそういうことが気になる性質らしい。その居心地の悪さを何とかしたいという思いに駆り立てられて、別にいつも明確にめざしていたわけではないが、何となく世界を自分なりに納得できるように理解したいという漢然とした願いを底流のようにいつも心に抱くようになっていたらしい。それから何十年か経ったあるとき、ふと、人間は本能が壊れて幻想の世界に迷い込んだ動物であり、それゆえにこそ歴史をつくらざるを得なくなったのではないかという考えがどこからともなく浮かんできた。人間以外の動物は自分の過去、自分の種の過去のことなど気にしないが、人間が気にするのは、本能が壊れたために、自分や自分の属する集団の存在を物語化し、その物語、すなわち歴史に基づいて生きるしかなくなったからではないか、したがって、人問の歴史、世界の歴史は幻想に発し、幻想で動いているのではないか、歴史の謎を解く鍵は幻想にあるのではないか、世界の歴史が、経済的、政治的、軍事的、社会的などの現実的諸条件で動いているように思っている人たちがいるらしいが、その経済、政治、軍事、社会こそが幻想の産物ではないか、その何よりの証拠には、人類は、どうしてそのようなことをする必要があったのかいくら考えてもわからないようなことばかりしてきているではないか、と考え始め、それを唯幻史観あるいは史的唯幻論と称した。この史的唯幻論によれば、皇国史観も東京裁判史観も左翼史観も、幻想で動いている歴史にあたかも現実的、物質的基盤があるかのように錯覚しており、一つの正しい世界のあり方があって、それを知っているのはわれわれだけだという誇大妄想を抱いているとんでもない間違った歴史観であるということになった。皇国史観は日本に、東京裁判史観はアメリカに、左翼史観はソ連にまったく好都合な歴史観であって、日本もアメリカもソ連も世界についてそれぞれ虫のいい身勝手な見方をしているに過ぎなかったということになった。しかし、史的唯幻論は、これまでのいずれの歴史観も納得できず何となく居心地が悪かったわたしの居心地の悪さを解消する、わたしにとってまったく好都合な歴史観であって、自分に好都合な虫のいい身勝手な見方を選ぶという点では、わたしもかつての大日本帝国やアメリカ帝国やソ連帝国と同罪ではないかという疑問が出てくるが、少なくとも史的唯幻論は史的唯幻論自体も幻想であると考えており、おのれの見方を絶対視せず、一つの正しい世界のあり方や見方などは存在しないとしている点において、他の歴史観よりいくらかましであるということにして、この疑問はこれ以上考えないことにする。皇国史観は大東亜戦争を正当化するために使われたが、それだけでなく、日本は神の国であるとか東亜の盟主であるとかの傍迷惑な誇大妄想的なところもあって、このような歴史観を信じていれば、とうてい他国とまともな関係はもてないようなしろものである。かつてどこかでわたしは、アジア諸民族の共存共栄を謳った大東亜共栄圏の理想があまり彼らに共鳴されなかった一因は皇国史観にあったのではないかと述べたことがある。また、左翼史観は資本主義の克服をめざしたロシア革命とそれに続くソ連体制を正当化するための歴史観であるが、ソ連が崩壊し、ナチス・ドイツにも勝るとも劣らぬ残忍なその恐怖政治の実態が明らかになった今となっては、かつての信望も魅力もなくなってしまったので、改めて論難する必要はないであろう。問題は東京裁判史観である。大日本帝国は確かにアジアを侵略したし、その野望を打ち砕いた点でアメリカは正しかったかもしれないが、『水戸黄門』のような勧善懲悪の時代劇とは違って、世界は単純ではなく、悪玉をやっつけた者が必ずしも善玉であるとは限らない。東京裁判史観も傍迷惑で誇大妄想的なところがあるのは皇国史観と同じである。東京裁判史観も、太平洋戦争を正当化するために使われ、文明と人道と正義の国であるアメリカが、文明と人道と正義に反した野蛮な犯罪国家である日本を裁くという前提に立っていたが、しかし、ただ単に敵国の日本を貶め、自国を称えるアメリカの己惚れた見方であるにとどまらない。それは、対日戦に勝利したアメリカが舞い上って信じ込んだ一時的な信仰ではなく、単なる腹立ち紛れの報復でもなく、ピルグリム・ファーザーズ以来のインディアン虐殺の歴史を正当化してきた「明白な運命」の理論に源を発する一貫した考え方、さらには、そののちのアメリカのベトナム戦争やイラク戦争を正当化するためにも使われた考え方、アメリカ帝国主義を支える考え方である。またさらに遠く源を辿れば、ヨーロッパ(ヨーロッパの派生としてのア.メリカをも含めた)中心主義というか、人類の文明はヨーロッパ人がつくったもので、それ以外の国はすべて遅れた野蛮国であり、ヨーロッパ人が指導し、支配しなければならないという、近代以来の長い歴史をもつヨーロッパ人の世界観とつながっている考え方である。要するに、東京裁判史観はヨーロッパ中心史観の一環であり、その意味で、東京裁判史観批判は、ヨーロッパ中心史観を批判した『黒いアテナ』のバナールの思想に相通じている。したがって、東京裁判史観の問題は、戦勝国が強い軍事力を笠に着て今や無力となった敗戦国を裁判にかけるのは不当であるとか、原爆投下という人類始まって以来の最大の犯罪を犯したアメリカが他国を裁く権利があるのかとか、原爆投下だけでなく、そのほかにもアメリカ軍はいろいろ戦争犯罪を犯しているのに日本軍の戦争犯罪だけを罰するのは不公平だとかの、日米関係の狭い範囲内でとやかく議論して済む問題ではなく、突き詰めれば、アメリカという国を支えてきた思想、広くはヨーロッパ文明を支えてきた思想を姐上に載せなければならなくなる問題である。何と言っても日本はアメリカとの戦争に負けたのだから、たとえ不満でも従うほかはなく、文句を言っても始まらないではないかということで東京裁判史観を容認すれば、それだけでは済まず、論理的筋道として、アメリカの世界支配を容認しなければならなくなるという、大きな広がりをもっ問題である。皇国史観は打ち破られ、左翼史観は滅びた現在、人類と地球に最大の災厄をもたらしているのが東京裁判史観である。◆イラク戦争を決断する根拠となったものわたしは、戦後日本が東京裁判史観を容認したことが、アメリカがベトナム戦争やイラク戦争を決断する根拠となったと考えている。すなわち、アメリカは、原爆投下を初めとする残忍な作戦で徹底的に叩きのめすと、あれほど頑強に抵抗していた日本が一転して従順な属国になった経験を教訓にして、とにかくアメリカに敵対する連中は軍事力で根こそぎやっつければいいのだ、そうすればおとなしくなってアメリカの言うことを聞くようになるのだと信じるようになり、第二次大戦後のアメリカの対外戦略はこの教訓が基本となっていると考えている。アメリカ軍はイラク侵攻作戦を「衝撃と畏怖」作戦と名づけたが、こういう命名の背後には、とにかく敵はハイテク兵器でひどい目に遭わせ、びっくりさせて恐れさせればいいんだというアメリカ軍の考え方が透けて見える。アメリカがこういう考え方をするようになったきっかけの一つが、戦後日本の対米態度にあるわけで、日本がアメリカにどのように対するか、YESと言うかNOと言うかは、それで日本が得をしたとか損をしたとかこだわっているうちに、その影響は日米関係を越えて世界に波及するのである。 (P60~P67)(私のコメント)「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」という本を取り上げるのは三度目になりますが、世界史はどのような視点で捉えるかは非常に難しい。年表を暗記するだけなら簡単だが、どうしてこのような戦争が起きたのかを考えるには政治イデオロギーが入り込んで難しい問題になる。特に日本などにおいては、大東亜戦争をどのように捉えるべきか、学者の間では東京裁判史観が主流であり、皇国史観は徹底的に排除されてしまった。最近でこそ東京裁判史観に疑問を呈する学者も増えてきましたが、昔は東京裁判を批判する学者は学会から排除される覚悟がいった。私のような素人なら何を言っても問題はないから皇国史観的な見方を書いていますが、外国にはとても受け入れられない国もあることは認識している。アメリカがその最たる国だ。最近でも靖国神社の遊就館の展示内容にクレームをつけたアメリカ政府の元高官がいましたが、アメリカとの間での歴史論争はこれから50年でも100年でもかけて東京裁判史観の間違いを認めさせる闘争が必要だ。もし東京裁判の間違いをアメリカの政府や国民が認識していれば、イラク戦争の大義名分もないことははっきりする事だ。皇国史観と東京裁判史観とでどちらが正しいかを決める事は難しいだろう。どちらにも正しくどちらにも間違っている点はある。それらを認識するには十分な論争が必要なのですが、皇国史観的な観点から日本の立場を主張する事は時代錯誤的な批判を受けてきた。戦後においてもGHQによって多くの皇国史観的な書物は回収されて焚書された。アメリカが裁かれる為にはアメリカが無条件降伏をすることが必要ですが、アメリカが戦争に敗れることを想像することは難しい。アメリカ大統領をイラクを侵略した事で戦争裁判にかけることは現実的ではない。だから気長にブログでアメリカは間違っていると書き続けて世界的世論に訴えていくしかないのですが、日本人自身が東京裁判史観に洗脳されて、従軍慰安婦問題にしても日本が自己主張することには多くの人が批判的だ。歴史的な事実を眺めて分析してみれば大東亜戦争はアジアの植民地を解放した契機となったことは確かだし、日本もそのようにプロパガンダしていた。しかし日本が敗れたことにより皇国史観は否定され、アメリカから東京裁判史観が植えつけられて、日本はアメリカによって解放されて民主国家になったということにされた。ブッシュ大統領が演説でそのように述べている。このような事をアメリカの大統領が演説で述べても日本の政府も文化人知識人も何も言わない。戦中は日本人の誰もが皇国史観を信じて戦ってきたはずなのに、敗戦によって日本人は皆沈黙してしまった。イラク国民がアメリカに占領されても頑強に抵抗しているのに日本人は昭和20年8月15日を境に抵抗をピタリと止めてしまった。軍事的な抵抗は止めても、日本が侵略国家であり犯罪国家とされてしまっても日本人はほとんど反論せずアメリカへの抗議もなかった。東京裁判で7人が絞首刑にされましたが、靖国神社に合祀されて日本の首相が参拝する事に対しても日本人の民意は半々に割れている。これでは大東亜戦争で戦死した250万人の英霊も浮かばれない事だろう。私は戦争が絶対的な悪であるとは考えていない。日本を侵略する国があれば日本人は戦わなければ日本という国は滅んでしまう。しかし日本の戦後教育は戦争は絶対的な悪であり戦う事は悪であると洗脳されてしまった。だからこそ日米安保があるのであり憲法9条が60年たった今もある。そして日本全国に巨大な米軍基地が80ヵ所も点在して日本を監視している。岸田秀氏が本で書いているように東京裁判史観をひっくり返すには日米関係に留まらず、ヨーロッパ人が作り上げてきた歴史観をひっくり返すことが必要なのですが、素人の私には荷が重すぎる。日本には歴史学者や国際政治学者が山のようにいるにもかかわらず、このような問題は放置されている。仕方がないから素人の私が書いているのですが、保守派の中でアメリカを批判する人は非常に少ない。しかし従軍慰安婦問題などでアメリカ下院議会で対日非難決議が決議されるようになって、日本の保守はもようやくアメリカの正体に気付きだしたようだ。特にアメリカの国務省は対日批判の中心勢力であり、CIAなどを通じて韓国や中国の反日デモを背後からけしかけているのだ。そして北朝鮮をテロ支援国家から外す事も国務省はたくらんでいる。国務省は米中連携による日本抑え込みの中心なのだ。欧米では表向きはともかく心の奥底ではいまだにヨーロッパ中心主観を信じており、ヨーロッパ人が野蛮な国を指導していかなければならないと思い込んでいる。ブッシュがイラクに攻め込んだのもそのせいですが、紀元15世紀頃まではヨーロッパよりも中東の方が文明国であり、文明はイスラム国家からスペインを通じてヨーロッパにもたらされたのだ。ギリシャ・ローマ文明はヨーロッパと言うよりも地中海文明というべきであり白人だけの文明ではなかった。歴史的に判断するならば大東亜戦争は文明はヨーロッパ人が作ったものという幻想を打ち砕く転機になったことは確かだ。このような文明観を打ち砕かれた仕打ちとして日本はアメリカに永久占領される事になった。アメリカ軍が日本から引き上げるのはアメリカという国が衰退して軍の規模を維持できなくなった時だろう。にもかかわらず日本政府は毎年の思いやり予算で6000億円も拠出している。日本を占領している外国軍隊に日本が費用を払っているのだ。もし日本人がイラク人のように抵抗していたらブッシュ大統領のような幻想は持たなかっただろう。小泉首相はテキサスの牧場で日本はアメリカによって解放されたと述べている。戦後の日本人にとってはアメリカは何でも正しく進んだ文化を持っていると思ってきた。今でもテレビを見ればトヨタやホンダは白人モデルを使ったコマーシャルを流しているが、白人崇拝的な洗脳手段としてテレビを使っているのだ。だから日本の若者は髪を金髪に染めて、青いコンタクトレンズをして白人コンプレックス丸出しだ。
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